京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科 COSER Center for On-Site Education and Research 附属次世代型アジア・アフリカ教育研究センター
京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科
フィールドワーク・レポート

国家が作るインド料理――IHMムンバイ校にみる調理教育と標準的インド料理の形成――

写真 1 料理学校の授業風景

対象とする問題の概要

 本研究が対象とするのは、多様な宗教・階層・地域に根ざすインドの料理文化が国家主導の近代的な教育制度のもとでいかに「インド料理」として標準化・再構築されているのかという問題である[Appadurai 1988]。インドでは調理技法は伝統的に、家庭内の口伝や徒弟制度(Guru-Shishya Parampara[1])により経験知・暗黙知として継承されてきた。しかし近年ではIHM(Institute Hotel Management, Catering Technology and Applied Nutrition)などを代表とする観光・ホスピタリティ産業に特化した職業教育機関が登場し、全国から集まる学生に対し標準的なインド料理観、レシピ、盛り付け、衛生観念、身体動作が一律に教授される。こうした国家による制度的枠組みが伝統的な料理実践の多様性を画一化し、国民料理としてのインド料理を再生産している。一方で革新的な料理表現を追求するモダンインド料理レストランのシェフも多くはこうしたホテルマネジメントスクール出身であり、教育機関は料理という身体技法を習得する上で重要な役割を果たしている。


[1] 特にダンスや音楽など芸術の分野において見られた、グルの家庭の一員として生活してトレーニングを行う師弟関係の伝統。

研究目的

 本研究の目的は、インドにおいて料理の専門家育成のためにどのような教育が行われ、国家的規範としてのインド料理がどのような制度の中で形成されているかを検討することである。インドのホテルマネジメントスクールのトップ校であるIHMムンバイ校において実際の調理実習に参加し、教育内容の分析に加え、教員と学生の相互作用、評価基準、教材の出所、食材の選定、調理環境の整備といった日常的実践を観察する。IHMにおける調理教育は、単なる技能の伝達にとどまらず、衛生観念、身体操作、味覚評価、さらには職業倫理や規範意識といった広範な社会的要素を内包している。特に注目すべきは、カーストや食習慣、宗教的禁忌といった背景の異なる学生たちが一堂に会し、国家標準の料理体系を学ぶという状況において、料理がいかにして脱個人化され、制度的真正性が付与されるかという点である。

写真2 IHM出身シェフへのインタビュー

フィールドワークから得られた知見について

 IHMムンバイ校において、2024年10月〜3月に調理実習現場で11回の参与観察を行った。並行して生徒および教員、卒業生へのインタビューを実施し、教育内容、運営体制、学生の出身背景に関する情報を収集した。実習において学生たちは教員の指示に従いながらグループに分かれて、分担しながら大量の食事を作り上げ、学校の給食として提供されていた。
 インド各地域の伝統料理を含むこうしたレシピはシェフでもある教員が作成したもので、他の教員の情報や文献、インターネット調査に基づいており、実地経験がない料理も多く含まれていた。チキンはほぼ毎回含まれ、非菜食を前提とした内容構成であった。スパイスや油、塩の量などは計測せず、教員の味覚が基準となっていた。
 授業は英語を基本としつつ、ヒンディー語での指導もみられた。インド中から生徒が集まるため母語や宗教的背景は多様であり、ベジタリアン家庭出身でも学校教育をきっかけに肉食を始める例も確認された。また、本人は食べられないが肉を調理するベジタリアンも見られた。生徒はバラモン・クシャトリヤ家庭出身者が多く、親が飲食業に従事している割合は低く、料理は家業というより専門的職能として選ばれていた。卒業生のうちシェフになる生徒は約二割にとどまる。
 IHMのような教育機関における教育は調理技能の伝達にとどまらず、衛生や時間管理、味覚の標準化といった規範の伝達を含む制度的実践であるといえる。調理技能そのものの継承というよりも、観光産業向けの文化資本を編成・再生産する装置として機能しており[Ray 2016]、卒業後の進路はホテルマネジメントや他業種への転向に広がっている。ここで「正統なインド料理」として教えられる料理は、生徒の家庭や・地域の料理実践から切り離され、国家と産業の要請に応じて「国民料理」[Appadurai 1988]が再構築されたものである。また、学校教育はシェフの宗教や食習慣を広げる上で一定の役割を果たしている。

反省と今後の展開

 今回のフィールドワークでは観察対象をIHMムンバイ校に限定したため、他の料理教育施設との比較ができなかった点が課題として残る。また、教育を受ける学生たちの出身階層や文化的背景と、調理内容との関係性を深く掘り下げるには至らなかった。また、制度の成立過程や歴史的変遷に関するアーカイブ資料の調査が不十分であり、制度の背景構造を描くには更なる文献・資料調査が必要である。加えて、学生の出身階層と教育成果の関係についての量的データが不足しており、今後は追跡調査を含む分析が望まれる。今後は他都市のIHMや私立調理学校との比較、および家庭・徒弟制など非制度的調理伝承との対照により、料理教育の標準化・規範化の構造を立体的に捉えたい。

参考文献

 Appadurai, Arjun. 1988. How to Make a National Cuisine: Cookbooks in Contemporary India. Comparative Studies in Society and History.
 Ray, Krishnendu. 2016. The Ethnic Restaurateur. Bloomsbury Academic.

  • レポート:清水 侑季(2024年入学)
  • 派遣先国:インド
  • 渡航期間:2025年1月24日から2025年3月17日
  • キーワード:インド料理、料理の人類学、調理教育

関連するフィールドワーク・レポート

ブータンにおける女性の宗教実践とライフコースの多元性

対象とする問題の概要  南アジア社会における女性研究では、世俗としての家族と現世放棄としての出家という二項対立的な女性のライフコース選択は自明のものとされてきた。特に、女性のセクシュアリティは危険なものとされ、家族や宗教といった制度によって…

身体感覚の習得に関する人類学的研究 ――ヨット競技における人・モノ・環境の関係から――

研究全体の概要  本研究の目的は、風・波を感じ、2人で共に操船し順位を争うヨット競技について、京都大学体育会ヨット部(KUYC)を対象に、操船に必要な感覚が習得される過程を明らかにすることである。学習に関する人類学的研究は、従来の言語中心的…

現代マレーシアにおけるタカーフル(イスラーム型保険)の生成と展開

対象とする問題の概要  私が研究対象とする「タカーフル」とは、端的に言えば「イスラームの教義に則った相互扶助の仕組み」である。私たちが一般的に思い浮かべる生命保険や損害保険といった商品に近いが、ムスリム(イスラーム教徒)が利用できるように工…

人々と樹木の関係性――タイにおける伝統的木造建築文化――

対象とする問題の概要  近代以前のタイは、人口に比して豊富な森林資源に恵まれていた地域であり、豊かな木造建築の文化が育まれてきた。寺院建築や華僑の建築には煉瓦も多用されるが、タイ族の伝統的な住まいは木造の高床住居である。またタイは精霊信仰の…

インドネシア中部ジャワ農村地域における共有資源管理/住民による灌漑管理とその変容

対象とする問題の概要  インドネシア政府はこれまで多種多様な農村開発プログラムを実施してきた。特にスハルト政権下では、例えば稲作農業の技術的向上を目的としたビマスプログラムのように、トップダウンによる開発政策がおこなわれてきた。しかし、こう…