京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科 COSER Center for On-Site Education and Research 附属次世代型アジア・アフリカ教育研究センター
京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科
フィールドワーク・レポート

現代インドネシアにおける社会変容とイスラームの知の担い手/イスラーム的市民社会論の観点から

ゴントール・プサントレンの入学式にて、大学院生らと

対象とする問題の概要

 インドネシアのイスラームは、人類学者Martin van Bruinessenが「保守転化」と呼んだように、民主化以後その性質を大きく変化させた。この「保守転化」は、インドネシア社会における民主化や市場化、グローバル化、9.11以後のイスラームの変動、IT化といった社会変容と連動しているのだが、その動態や方向性、社会への影響はまだ分析が試みられている途上にある。学界におけるこれまでの理解としては、インドネシアのムスリム社会における宗教的敬虔さの高まり、清教徒的な宗教解釈の広まり、より清教徒的な宗教法への支持の高まり、超国家的宗教組織や運動の拡大、そしてイスラームを脅かすものとしての「自由主義」や「世俗主義」への反発などをこの「転化」の特徴として捉えている。この流れが今後のインドネシア社会に及ぼす影響や変革を読み取るために、異なるディシプリンや観点からの分析が求められている。

研究目的

 前期まで、インドネシアのムスリム社会を分析するための枠組みとして小杉[2006]の提唱した「イスラーム的市民社会」を用いて理論形成を行った。このイスラーム的市民社会論とは、ムスリムの知的指導者であるウラマーを中心とし政府・国家主体と緩やかに切り離された形で存在する市民社会[小杉 2006; Hallaq 2013]をイスラーム復興の一つの根幹と見て、イスラーム復興運動が起きているムスリム社会におけるそのような市民社会の構築を分析することで社会変容を読み取るというものである。今回の研究の目的は、この枠組みを用いて伝統的教育機関であるプサントレンの分析を行い、主要なアクターをウラマーであると位置づけ、ウラマー(ジャワの伝統的社会においてはキアイと呼ばれる)の権威がいかにして確立されるのか、またプサントレンなどがどのように位置づけられているのかを考察する。

ゴントール・プサントレンの付設大学、ダルサラーム大学

フィールドワークから得られた知見について

 フィールドでは、インドネシアで最高峰とされるプサントレンであるゴントールという場所に二ヶ月ほど滞在した。ゴントールは東ジャワ農村部ポノロゴにある。ゴントールでは英語とアラビア語教育が徹底しており、インドネシア語を用いなくてもある程度会話が通じるほどであった。ゴントールは宗教教育機関であるが、その社会的な立ち位置は教育機関に留まらない。ゴントール系列とも呼べるプサントレンはインドネシア中に拡大しつつあり、敬虔さを増しつつあるインドネシア人にとって最も選択されている進路であるとされる。ゴントールが最も選択されている理由として、伝統的なプサントレンとは異なり、近代的教育システムを取り入れていることが挙げられる。また、教えられるイスラームが、従来のナフダトゥル=ウラマーやムハマディヤといった大衆組織に縛られないものであることから、インドネシアのムスリム社会が持つイスラーム観に徐々に変化を与えつつある。更に、ゴントールの卒業生が持つネットワークはインドネシア中の宗教機関、政治社会、ビジネス界などに拡大しており、このネットワークを通した形で特定のムスリム思想家が影響力を行使することもある。例えば、2016〜2017年に起きたバスキ・プルナマジャカルタ州知事に対する大規模な抗議デモにおいては、ゴントールのネットワークを通した形での生徒の動員や知識人集団の形成が行われた。プサントレンをベースにし、社会に影響力を行使する仕組みは、小杉の説明した「イスラーム的市民社会」に近い構図であるように見える。この構造を理解することは、イスラーム的市民社会という構図がインドネシアでどのように構築されているのかを理解できるだけでなく、Van Bruinessenの言う「保守転化」の内実は何なのか、そもそも保守転化が起きているのか、といった点を議論する論点を提供してくれる。

反省と今後の展開

 今回のフィールド調査では、ゴントールのプサントレンを中心としたイスラーム的市民社会の可能性を発見することができた。しかし、研究課題の一つであるウラマーの権威構築の仕組みは十分に調査できなかった。現地にいる間は、ウラマーという課題よりもプサントレンの方に注視すべきであるように感じたためである。しかし、帰国後、指導教員と改めて議論する中で、ウラマーの位置付けについて把握する重要性を再認識させられた。この経験を通して、指導教員と定期的に意見交換し合い、指針を把握することの重要性を認識した。次回、インドネシアに渡航する際には、この問題について考察しようと考えている。今後は、予備論文の執筆にかかる。予備論文は博論の序章という形を取る。序章においては、イスラーム的市民社会という分析枠組みのまとめを行い、またイスラーム知識人がどのように権威性を付与されるのかその仕組みのまとめを行う予定である。

参考文献

【1】小杉泰. 2006.『現代イスラーム世界論』名古屋大学出版会.
【2】Hallaq, W. 2013. The Impossible State: Islam, Politics, and Modernity’s Moral Predicament. New York: Columbia University Press.
【3】Van Bruinessen, M. ed. 2013. Contemporary Development in Indonesian Islam: Explaining the “Conservative Turn”. Singapore: ISEAS Publishing.

  • レポート:水野 祐地(平成30年入学)
  • 派遣先国:インドネシア共和国
  • 渡航期間:2018年7月22日から2018年10月1日
  • キーワード:イスラーム、インドネシア、プサントレン、ウラマー

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