京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科 COSER Center for On-Site Education and Research 附属次世代型アジア・アフリカ教育研究センター
京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科
フィールドワーク・レポート

フィリピンにおけるカトリックと科学の交錯

写真1 調査に協力してくれたキャプテン・アルバート・アギラール・ナショナル・ハイスクールのG10の学生たち

対象とする問題の概要

 フィリピンは国民の多数がカトリック教徒であり [Cannell 1999]、宗教は家族倫理から政治文化に至るまで価値観の基盤を形成してきた。一方、アメリカ統治期以降に導入された科学教育制度 [Barton 2013]は、現代科学を学校カリキュラムへ取り込み、進化論も正式に教授されている。しかし、生命の起源を宗教的物語と結びつけて理解する伝統 [Tan 2015]は根強く、学校現場では信仰と科学の調整が常に求められる。進化論をめぐる対立は米国のスコープス裁判に象徴され、その言説がフィリピンにも移入されたと指摘されている [Tan 2015]。同時に、カトリック教会は教皇ヨハネ・パウロ二世の声明に見られるように、進化論受容へ一定の余地を持っている [Pope John Paul II 1996]。そのため実際には、生徒や教師が宗教と科学を折り合いながら併存させる現象が広く観察される [Mendoza et al. 2019]。本研究はこうした信仰と科学の交錯を教育現場から分析し、宗教的伝統と現代科学思想が共存するフィリピン社会の特性を描き出すことを目的とする。

研究目的

 本研究の目的は、フィリピンにおけるカトリック信仰が人々の科学理解、とりわけ進化論の受容にどのような影響を及ぼしているかを明らかにすることである。学校教育では科学と宗教が併存しているが、両者の関係は一様ではなく、教育実践や生徒個人の信仰態度によって多様な折り合いが見られる。本研究では、生徒・教師・大学生・大学教授・宗教指導者などへのインタビューと調査を通じ、科学的説明と信仰の教えがどのように調和・対立し、最終的にどのような世界観を形成しているかを検討する。最終的には、宗教と科学の相互作用を通して、フィリピン社会の価値観、アイデンティティ、知の受容のあり方を描き、宗教的伝統と現代科学が併存する社会の独自性を示すことを目指す。

写真2 調査に協力してくれたドニャ・テオドラ・アロンゾ・ハイスクールの先生

フィールドワークから得られた知見について

 現地調査では、主に中等教育段階(G9・G10)の生徒に対し、進化理解および受容度に関する質問紙調査を実施した。その結果、学年が上がるほど科学理解が必ずしも深化するわけではなく、むしろG10では「サルからヒトが進化した」という説明に対して否定的態度が高まる傾向が確認された。これは宗教教育内容の蓄積や思春期における信仰的アイデンティティの強化が影響している可能性がある。また、教師の影響力の大きさも顕著であり、科学的説明を積極的に支持する教師のクラスでは受容度が高い一方、宗教的教義と整合させる形で進化を扱う教師のクラスでは懐疑的傾向が示された。すなわち、教育者の価値観が生徒の理解に直接影響するという教育社会学的含意が得られた。
 さらに、アテネオやUPのような名門大学への進学者であっても、入学段階では進化論に関する体系的理解が十分でないと大学教員から指摘があった。この背景には、初等・中等教育段階で進化論が「最後に駆け込みで教えられる」状況や、宗教への配慮から教育実践が限定的になりがちである現実があると考えられる。
 UP地質学教授へのインタビューでは、「科学は真理の独占者ではなく、複数ある世界理解の一つとして提示されるべき」との立場が示された。また、初回講義において宗教との矛盾点を明確化し、試験では信仰ではなく講義内容に基づいた回答を求めることが説明された。多様な宗教的背景を持つ学生が集まるUPだからこそ、対立回避と内容保証を両立させる教育的工夫が行われていると解釈できる。
 以上よりフィリピンにおける科学受容は、単に教育制度の問題ではなく、宗教性、教師の教育観、大学教育の介入可能性が複合的に作用する動態的プロセスであることが明らかになった。

反省と今後の展開

 今回の調査では、自身の聖書知識が十分でないまま現地入りしたため、回答の背景にある神学的理解や言及の意図を解釈しきれなかった点が反省点として残る。また、生徒の信仰の強度を自己申告のみに依拠したが、聖書知識テストや宗教実践頻度など複数指標を用いることで、より精緻な分析が可能であったと考えられる。さらに、調査対象が学校に限定されたため、教会や家庭など宗教を実際に体験する場でのデータが不足した。
 今後は、①宗教空間での科学観の検討、②カトリック学校と公立学校の比較、③地方都市との比較による文化差の分析、などへ調査を拡張する予定である。また、生徒の価値形成を時間的に追跡可能な縦断調査も検討したい。これにより、信仰と科学が実践の中でいかに再解釈・再構築されていくのか、フィリピン社会の多層的な知の受容を立体的に描き出すことを目指す。

参考文献

 Barton, K. 2013. US Influences on Philippine Education: Historical Connections and Contemporary Manifestations, Journal of Southeast Asian Studies 44(2): 234–250.
 Cannell, F. 1999. Power and Intimacy in the Christian Philippines. Cambridge: Cambridge University Press.
 Mendoza, R. C., J. Teng, & M. Lising. 2019. Religious Beliefs and Attitudes toward Evolution among Filipino Students, Philippine Journal of Science 148(1): 153–167.
 Pope John Paul II. 1996. Message to the Pontifical Academy of Sciences: On Evolution and the Living World. Vatican: Libreria Editrice Vaticana.
 Tan, M. 2015. Evolution, religion and education in the Philippines, Philippine Daily Inquirer.

  • レポート:野々上 玲音(2025年入学)
  • 派遣先国:フィリピン
  • 渡航期間:2025年8月20日から2025年10月14日
  • キーワード:カトリシズム、科学受容、進化論、科学リテラシー、世界観形成、 教師の影響力、宗教的世界観、信仰態度

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