世界遺産白川郷における現代相互扶助制度
研究全体の概要 近年、農村地域の都市化やグローバル化が急速に進み、相互扶助といった人々の共助は失われつつある。そもそも相互扶助という村落慣行は、世界各地の農村地域で古くから行われてきた労力交換や共同労働を指す。白川村荻町には「結」という言…
ミャンマー・バゴー山地ではカレンの人々が焼畑を営んできたが、大規模ダム建設、民間企業への造林コンセッション割り当てや個人地主による土地買収などによりその土地利用は大きく変化しつつある。本研究の調査対象地であるT村も、ダムの建設によって2005年に移転した村である。ダム湖に沈んだ旧村では水田耕作を中心とし、伝統的な焼畑耕作がその補助的役割を担っていたが、移転先周辺は個人地主の土地買収により、住民に焼畑・水田用地は割り当てられていない。そのため現在の移転先新村では焼畑耕作が中心的な土地利用となり、限られた焼畑でのウコン(Curcuma longa L.)をはじめとする商品作物栽培や出稼ぎなどが、新たな就労機会・現金収入源となっている。T村の各世帯はこのような状況の変化にどのように対応しているのか、土地利用および生業の変化に着目し、カレン村落の生業戦略の実態を報告する。
本論文はミャンマー・バゴー山地でのフィールドワークをもとに、カレン集落の住民が時代の変化に合わせて土地利用をどのように変化させ、対応してきたのかを実証的に検討し、ミャンマーの農村社会が抱える問題を明らかにすることを試みる。この目的を達成するために、以下の課題を設定したい。まず、大規模ダム建設前後での土地利用の変化に伴う集落全体の生業変化の概要を明らかにする。次に、これらの結果からバゴー山地の地域的特徴を捉え、土地利用変化に対応するための住民の生業戦略とミャンマーの農村が直面している課題を考察する。
聞き取り調査によれば、ダム建設以前の旧村では1980年代に入るまでは陸稲、モチゴメ、ゴマ、トウガラシなどの作物を栽培するための焼畑を中心とした自給自足の生活が営まれていた。しかし1980年代に入り、ビルマ人の村との交流が始まったことによって水田耕作及び、ビルマ語でカイン [1] と呼ばれる常畑地での耕作が始まった。その結果、焼畑は主要な生業としての役割から、水田で作られる水稲の不足分への補助的役割に変化した。水田では水稲を、カインでは油に加工して販売するためのラッカセイやゴマが主に栽培されており、その周辺では自給用の野菜を栽培していたという。その結果、ダム建設による村落移転の前年、つまり2004年段階における旧村の衛星画像を見てみると、その景観は多くの水田とカインが広がっていることが見受けられる。しかしながら、ダムの建設に伴い、旧村が水没した2005年の村落移転後、住民はそれまで耕作していた水田やカインの全てを損失した。それ以降、空いている土地を見出し、再び焼畑耕作が村の主要な土地利用を占めるという現象が起きている。また、2015年を境に、ある村人がウコンの栽培で成功を収めたことをきっかけに、ウコンの栽培が村落内で拡大し、焼畑で換金作物としてのウコンが大々的に栽培されるようになった。ウコンの栽培が村落内に拡散する以前から村人による商品作物導入の試行錯誤があったということからも、旧村でのラッカセイ油に代わる商品作物栽培を限りある土地で行う道を開くことが重要であったことがうかがえる。また、新村は、道路へのアクセスが良くなったことにより、国内外への出稼ぎが若者を中心に新たな収入源になっている。
[1] カイン:雨季には水没するが、降雨が少なく河川の水位が下降する乾季に耕作地として利用される土地のこと。
本調査において、時間の都合上旧村及び新村における焼畑地の土地面積の特定ができず、焼畑地の土地面積はインタビュー調査に基づくデータからの推定となっている。そのため不完全さが残っている。今後、より正確に土地利用の変化を調査するために、焼畑の旧村及び新村の土地利用の特定を衛星画像を用いて行う必要がある。また、聞き取り調査によれば、水田耕作が始まる以前のカレン村落の生活は、ほぼ自給自足の生活であった。その当時は焼畑で野菜の収穫ができない時期は多様な林産物を採取し、薬品や食材にしていたという。新村において野菜は他の村からくる商人から購入することができるため、彼らの林産物利用も昔と現在では変化していることが考えられる。今後は、旧村から新村にかけての林産物利用の変化と主食・副食の自給率の変化を合わせて調査していきたいと考えている。
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