現代トルコにおける福祉とイスラーム――シリア・トルコ地震時における慈善団体の活動に着目して――
対象とする問題の概要 2023年2月6日現地時刻午前4時16分、マグニチュード7.8の地震がトルコ南東部のシリア国境付近で大規模な地震が発生した。約9時間後、最初の地震の発生地から北西に95km離れたところを中心に発生した。地震が起きたと…
「幻想的なもの」は、「現実」としての人間の身体の機能から生じながらも、身体の次元をはなれて展開している。そして、この「幻想」が共同生活や言語活動によって否定的に平準化されていく過程を通じて、社会を形成する「象徴的なもの」になる。本研究では、以上のような現実・幻想・象徴の関係を検討した哲学の成果を参照しつつ、人間の身体(こころ)から「幻想」が生まれ出る過程を中心に観察する。そこで具体的な観察対象として、岩手県遠野市における「赤いカッパ」をめぐる人々の語りを扱う。
今回の臨地調査では、「赤いカッパ」はかつて飢饉の際に口減らしのために川に捨てられた赤子に由来するという地域住民の語りがきかれた。「赤いカッパ」は、彼らが感官を通じて体験してきた遠野の寒冷な気候や冬の生きづらさ、そして飢饉という歴史的事実をとおして「現実」とみなされていた。彼らの語りによれば、カッパは、一般的にそうみなされるように「幻想=妖怪」なのではなく、むしろ現実に生きていたヒト(捨て児、先祖)であった。
今回の演習では、事前調査[1]をもとに、①遠野の地理的・文化的条件の観察と、そうした条件のもとでなされる②妖怪をめぐる遠野の人々の語りの記録を行った。ここでは、①で観察対象とした遠野の地勢や地質的つながりから生まれた史跡を、彼らが身体によって生きている「現実」の一部と仮定している。この「現実」との関係において、彼らにとって「妖怪」が何であるかを検討する。特に、そこが現在そこで暮らす人にとってどのような場所であるか、そして妖怪伝承が今どのような形で語られているかを見聞することをめざした。
[1] 『遠野物語』を纏めた柳田は、「伝えいう、遠野郷の地大昔はすべて一円の湖水なりし」との記述を残している[柳田 1910: 239]。この記述の真偽を確かめるべく、岩手県立遠野高等学校理科研究部[1995-2000]が精緻な検証を行なっており、その結果、地質年代にして第4紀の最終氷期(7万〜1万年前)にかけて、遠野盆地【写真1】内の現在標高260-270mのあたりまでは湖であったと推定されている[杉山 2008]。彼らの報告と文化財保護委員会地図[1966]を照らし合わせることで、遠野がかつて湖だったときのその沿水地域に遺跡や寺社仏閣が分布していることがわかった。加えて、これらの史跡・遺跡にまつわる民話・伝説を収集した。
調査①では、遺跡・史跡が山の入り口、村落の外れや河川流域に集中していることが確認できた。事前調査で得た情報も加えると、太古の昔には湖と陸地との境界であったところが、現在では平地と山地との境界となっており、いずれの時代にも「境界」とみなされうる箇所に史跡が分布していることがわかった[1]。これは古代より「境界」が霊的空間として祀られてきたとする先行研究[赤坂 1989等]の帰結と一致する。さらに、こうした箇所には滝や河川の交流、トア(花崗岩が風化してできた岩塔)などの地形・地質的特徴が現れており、それらがそのまま祀られたり(巌龍神社)、民話・伝説として語られたり(続石、五百羅漢)していた。
調査②では、一部の遠野の人々からカッパが「妖怪ではない」とする語りがきかれた。彼らは、カッパの起源には、遠野で飢饉が多発した時代[2]に川に赤子を流した背景があると説明した。遠野に散見されるカッパ像の多くは赤いのだが【写真2】、彼らはこのカッパの「赤さ」を赤子の赤さと関連づけた。臨地では筆者自身も飢饉の原因である寒さや強風を体感できたが、語りの中では、彼ら自身の体感が赤いカッパと飢饉を結びつける証左のひとつとされていた。以上のように、彼らにとってカッパは「現実」に対置される「幻想」どころか、むしろ自らの感官や歴史的事実をとおして「別の現実」としてありありとそこに在ったものと考えられていた。彼らの語りの背景には、妖怪の起源を間引きや口減らしと結びつける言説[火野 1954等]の受容があると思われる。
[1] 遠野では河川の氾濫時や、稲田の水張期には盆地一帯がまるで湖であるかのように見えるとの情報があったが[杉山 2008]、今回の調査ではそうした事実確認はできず、目撃情報も得られなかった。また、水神や田神との関連が指摘されているカッパについての語りのなかでも、かつて遠野が湖であったときとのつながりが説明されることはなかった。後述のとおり、カッパ伝承に影響を与えていたのはむしろ遠野の気候、冬の厳しい寒さであった。
[2] 江戸時代・宝暦-天保年間(1755-1838)には遠野も含めた南部藩領地で飢饉が多発した。遠野では現在も飢饉のことを「餓死どき」と表現するが、この表現も飢饉を現実として想起させる。
調査①で得られた情報には、現在遠野の地理に生きる人々の観察が加えられるべきであるが、これにはより長期的調査がまたれる。今回は調査①よりも、むしろ調査②できかれた語りから思いがけず妖怪と地勢との関わりが明らかとなり、これが研究全体の目的に資した。彼らの語りから、彼らが「現実」とみなす範疇には遠野の地勢とそれに根ざした習俗が含まれており、一般には「幻想」として扱われる「妖怪」が、そうした「現実」の一端を担っていると彼らが考えていることが読み取れた。このあたりが心意表象としての「妖怪」が現実と幻想との境界にあるということを示す指標のひとつになりそうである。なお、本報告では遠野文化としての民話に積極的に関わっている人たちの語りのみを取り上げたが、ここに該当しない人々の語りも当然考慮せねばならない。先述した地域住民と妖怪研究者との交流史を追うことも今後の課題となる。この交流には、筆者が不勉強であった政治・経済的な要因も多分に影響を与えていると思われる。
赤坂憲雄. 1989.『境界の発生』砂子屋書房.
杉山了三. 2008.「遠野盆地の発達史とその教材化」野依科学奨励賞小論文・実践書報告集, 独立行政法人国立博物館. pp.157-182.
火野葦平. 1954. 「河童跳梁」 『河童漫筆』朋文堂.
文化財保護委員会. 1966.『全国遺跡地図 : 史跡・名勝・天然記念物および埋蔵文化財包蔵地所在地地図』文化財保護委員会.
柳田國男. 1910.『遠野物語 付遠野物語拾遺』角川書店.
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