京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科 COSER Center for On-Site Education and Research 附属次世代型アジア・アフリカ教育研究センター
京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科
フィールドワーク・レポート

20世紀前半のケニアにおけるキリスト教宣教団による聖書翻訳

ケニア聖書協会の外観

対象とする問題の概要

 20世紀前半のケニアにおけるキリスト教宣教団の活動は教育や医療など非常に多岐に渡った。そのなかでも聖書をケニアに存在する様々なローカル言語へ翻訳する試みは重要な活動の1つであったと考えられる。マタイによる福音書に「それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子とせよ」[日本聖書協会: 28-19]と伝承されていることからも分かるように、キリスト教は成立初期から宣教的宗教であった。特に、その初期において東方キリスト教圏で各地の現地語へ聖書が翻訳された[戸田2016: 160]。さらに15世紀後半以降、世界的な拡大をみせるキリスト教宣教活動において、任地に到着した宣教師らが真っ先に取り組んだのは、現地の言語を習得し、聖書や教理問答集などをローカル語に翻訳することであった[大澤2019: 122]。現在でも聖書をローカル言語へ翻訳する活動は継続されており、特にケニアではBSK-ケニア聖書協会(Bible Society of Kenya)[1]という団体が数多くのローカル言語で記述した聖書を出版している。


[1] BSKとは聖典の翻訳、制作、配布を目的に1970年にケニアで設立された組織である。組織としては非常に小規模ではあるが、ケニアにおけるすべてのキリスト教会に奉仕しているため、その影響力は組織の規模以上に大きいとされる[Njoya 2004: 7]。

研究目的

 本研究では、これまで注視されてこなかった聖書翻訳をめぐるキリスト教宣教団同士の関係性を明らかにする。既存研究では、1930年代の西ケニアでおこなわれた英語から現地の特定のローカル言語へ聖書を翻訳する活動のなかで、その地域の政治コミュニティの形成に影響したことが指摘されており[Macarthur 2012: 172]、翻訳活動の中におけるヨーロッパ人宣教師と現地住民との関係が論じられてきた。本研究では、むしろ宗派の異なる宣教団同士の関係性に関心を向ける。聖書の翻訳は各宣教団にとってどのような意味を持つものであったのか。聖書翻訳という宣教活動の1つは、宗派の異なる宣教団の間でどのような協力や対立を生んだのか。本研究ではひとまずアングリカンチャーチ(Anglican Church)が有していた宣教会、CMS(Church Missionary Society)やBSKに関わる資料からそれらを明らかにする。

ケニアアングリカンチャーチナイロビ教区の外観

フィールドワークから得られた知見について

 フィールドワークでは語学学習と資料収集の2つの目的を持って臨んだ。1つ目の語学学習では、ケニア最大のエスニックグループである、キクユ語の個人授業を週4回、約1か月半の間受けることができた。授業では、キクユ語の日常会話を中心に、発音記号から文法事項、辞書の使い方まで基本的なことがらを教わった。
 2つ目の資料収集は4か所のアーカイブ及びライブラリーを中心におこなった。1か所目のケニア国立公文書館(Kenya National Archive)では宣教会の宗派を限定せずに聖書翻訳に関わる資料を入手することを試みた。しかし、カタログに明記されていても散逸している資料も多く、入手できた資料のほとんどがCMSによる活動である。2か所目はケニアアングリカンチャーチ(Anglican Church of Kenya)が有するアーカイブである。このアーカイブには、アングリカンチャーチの宣教会であったCMSに関わる資料が多く収められている。特に、ルヤ語というローカル言語に聖書を翻訳するためにおこなわれた会議資料を入手することができた。3、4か所目はケニアの2大新聞社の「ネイションメディアグループ」そして「ザ・スタンダード」のライブラリーでおこなった。ここでは、「ケニアアングリカンチャーチ」や「聖書」について言及している新聞資料を収集した。また、聖書翻訳に関するインタビューも一部の教会で実施することができた。インタビューはイタリア、カトリック系のコンソラータミッション(Consolata Mission)でおこなった。この教会はライブラリーやアーカイブをケニアに所有していないため、聞き取り調査という形式で聖書翻訳に関する基本的な事項を知ることができた。

反省と今後の展開

 今回、キクユ語の聖書翻訳に関する資料を思うように収集することができなかった。これはそれらの資料が他のローカル言語と比較したとき相対的に少ないことに原因があると考える。つまり、当時考えられていたエスニックグループの人口的な規模と翻訳の優先順位とは必ずしも結びつくものではなく、キクユよりも小規模なグループの言語から先に聖書翻訳が開始された。このような新たな知見をフィールドワークから得ることができた。今後はこれらの収集した資料を中心に研究をおこなう。CMSはどのような戦略を持って宣教活動の一環として聖書翻訳に従事したのか、翻訳活動のなかで他宗派の宣教団に配慮するような記述が意味するものとはなにか。これらを明らかにし、20世紀前半のケニアにおける複雑な宣教団同士の関係を考察する一助としたい。

参考文献

 Macarthur, J. 2012. The Making and Unmaking of African Languages: Oral Communities and Competitive Linguistic work in Western Kenya, Journal of African History 53 151-172.
 日本聖書協会. 2015. 『口語聖書』 2015. 日本聖書協会.
 Njoya, L. N. 2004. Strategy for Mobilization and Sustainability of Resources Among Not-for-Profit Organizations in Kenya: a Case Study of the Bible Society of Kenya. Nairobi University, Ph. D thesis.
 大澤広晃. 2019. 「キリスト教宣教がつなぐ世界」永原陽子編『人々がつなぐ世界史』 ミネルヴァ書房, 113-135.
 戸田聡. 2016. 「初期キリスト教と聖書翻訳」『北海道大学文学研究科紀要』150: 159-199.

  • レポート:木村 香純(2022年入学)
  • 派遣先国:ケニア
  • 渡航期間:2022年10月5日から2023年2月13日
  • キーワード:ケニア、キリスト教宣教、聖書翻訳

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