ケニアにおける博物館事業の展開とその矛盾――国民性と民族性のはざまで――
対象とする問題の概要 ケニア史を彩る国民的英雄たちについて展示する国立博物館が、ケニア共和国ナイロビ県ランガタ地区ウフルガーデンにおいて竣工し、展示場の一般公開を間近に控えている。関係者が「ヒロイズム・ミュージアム」と呼ぶ当館は、ケニア国…
1963年に英国からの独立を果たしたケニアでは、国家開発のためのさまざまな教育開発事業が取り進められてきた。例えば、2003年に初等教育無償化政策が導入され、それによって子どもの就学率が急速に増加した。また近年では、これまで課題とされていた村落部における教育開発も行われている。
ケニアにおける教育開発の広がりは、家畜に強く依存し、移動性の高い生活を送る人々が住む牧畜社会にも行き届いている。しかし、牧畜社会では、家畜の世話や放牧などを子どもが担うケースが多く、子どもは重要な働き手として認識されている。そのため、子どもが学校に通うということは世帯における労働力の損失という見方もできる。また、親が無学な場合、彼らは教育の価値を理解しておらず、子どもを学校に通わせることに消極的であるという言説も展開されている。
本研究の関心は、どのようにして牧畜民が「伝統的」な生活と近代教育の調和を図っているのかという点にある。
本研究の目的は、ケニアのナロック県に位置するコイラレ地区において、家畜に依存する「伝統的」な生活を送るマサイの人々が近代教育の役割をどのように位置づけているのか、また就学児を持つ世帯において、子どもの学業と牧畜の運営をいかに両立させているのかを明らかにすることである。本調査ではコイラレ地区の9世帯を対象に、聞き取り調査と参与観察を行った。
コイラレ地区に住む9世帯において、11名が就学前であり、13名が初等教育、17名が中等教育、3名が高等教育課程にいることが分かった。ケニアの教育制度では6歳から初等教育が始まるが、同地区の調査対象世帯では就学年齢に達した全ての子どもが近代教育を受けていた。また、彼らの保護者18名のうち就学経験があるのは4名のみであった。
まず、コイラレ地区に住むマサイの人々が近代教育に何を求め、またその役割をどのように位置づけているのかについて述べる。同地区では、子どもの就学は将来的な現金獲得のための先行投資であるという認識が支配的であった。現金獲得のための就職先として最も多かったのは同地区内に点在する外国人観光客向けのロッジであり、近代教育を受けているかどうか、とりわけ英語が話せるかどうかが収入の額に多大な影響を与えていた。英語が話せない者はロッジの夜警として働く場合が多く、その月収は20000円程度である。しかし、英語が堪能な場合、ロッジのレストランのウェイターなど職種の幅が広がり、繁忙期の月収は60000円程度になる。また、このような接客業では観光客からのチップも重要な収入源となっている。
次に、子どもの学業と牧畜の運営をいかに両立させているのかについて述べる。調査対象世帯では、学校の長期休暇期間以外は牧畜の運営に必要な人手(子ども)が不足する場合がある。しかし、コイラレ地区はタンザニアとの国境付近に位置しており、タンザニア出身のマサイの人々が仕事を求めて同地区を訪れる。人手が足りない世帯では、彼らを5000円程度の月収で雇い、牧畜の運営に必要な労働力を補充する。彼らの月収は比較的低いと言えるが、雇い主世帯から住居と食事が提供され、家族の一員のように扱われる。家畜との結びつきが非常に強いとされる牧畜民マサイであるが、必要であれば、自分の家畜の世話を面識の無い赤の他人にあっさりと委ねるという一面も明らかにできた。
今回の調査の反省は大きく2つある。ひとつは、聞き取り調査を英語の通訳なしでは行えなかった点である。学校に通う子どもの親の多くはマー語またはスワヒリ語のみを話すため、彼らの子どもに通訳を依頼していた。そのため、聞き取れる情報は限定的であった。次回の調査までに現地語の運用能力を高める必要がある。
ふたつ目は、調査期間中に学校の長期休暇が始まり、学校での現地調査があまり出来なかった点である。どのような経緯でコイラレ地区に学校が建てられたのかなど、同地区における教育開発の歴史に関する調査は次回の調査に持ち越す形になった。
Copyright © 附属次世代型アジア・アフリカ教育研究センター All Rights Reserved.