京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科 COSER Center for On-Site Education and Research 附属次世代型アジア・アフリカ教育研究センター
京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科
フィールドワーク・レポート

現代インド料理における伝統と地域性――ムンバイファインダイニング「Masque」を事例として――

写真 1 Masqueで提供している料理

対象とする問題の概要

 インドではさまざまな食に関する規制が存在する。特に不浄観から低カーストからの食物のやり取りを拒絶する習慣や、信仰に根差した特定の食品へのタブーなどがある。そのため、レストランや大衆食堂で外食をするという習慣は一般的ではなかった。しかし、1947年のインド独立以降、都市部を中心に外食産業が発展し、特にムガール料理やパンジャーブ料理が「正式な食事」として広がった[Nandy 2004]。1990年代以降の経済自由化の波にのって、高級レストランが富裕層のステータスとして登場し、2000年代初頭には分子料理や海外ディアスポラの影響を受けた「モダンインド料理」と呼ばれる新たなジャンルが誕生した。さらに2015年以降、欧米から帰国したシェフたちにより、地方料理の強調や「Farm to Table」を謳う素材重視のスタイルが定着してきた。中でもムンバイはインド随一のコスモポリタン都市であり、多くのファインダイニングが存在する。本調査は、この背景を踏まえ、ムンバイにおける象徴的なレストラン「Masque」の事例を通じて、現代インド料理におけるガストロノミーの形成とその社会的意義を検討する。

研究目的

 本研究の目的は、ムンバイの「Masque」を事例に、モダンインド料理が伝統とグローバルな技術をどのように融合し、新たなガストロノミーの形式を形成しているかを明らかにすることである。「Masque」での実際のフィールドワークを通じ、レストランの運営、コース料理の制作過程、使用される食材、顧客層、シェフの教育やキャリアに関するデータを収集・分析する。また、文献研究を通じて「伝統的」なインド料理の形成史を研究し、宗教や政治的要素と食との結びつきが現代のモダンインド料理にどのように影響しているかを考察する。これにより、特に制約の多いインド社会における食のあり方がどう変化し、ファインダイニングがどのような役割を果たしているのか、その社会的・文化的意義を包括的に理解することを目指す。

写真2 料理学校IHM Mumbai校の授業の様子

フィールドワークから得られた知見について

 ムンバイの「Masque」におけるフィールドワークを通じて、同レストランが伝統的なインド料理とグローバルな料理技術を融合し、新たなガストロノミーの形式を創り出していることが明らかになった。Appaduraiが指摘するように、インド料理はカーストや宗教、地域文化と密接に結びついており、地域の特徴を隠さない料理である[Appadurai 1988]。「Masque」ではそのアイデンティティを保持しつつ、発酵や燻製、液体窒素調理といった現代的な調理技術を積極的に導入している。さらに、Bandelチーズ(ベンガル)や赤米(マニプール)、昆虫(チャッティスガル)、シーバックトーン(ヒマラヤ)、サボテン(ラージャスターン)といった地域固有のマイナー食材を使用することで、地域性を強調しながら全インド的な視点を取り入れている。こうした取り組みは、インド料理がそもそも外来の食材や調理法を吸収しながら発展してきた歴史的背景とも一致しており、真正性を保ちながら新しい形のインド料理像を形成しているといえる。また、「Masque」では料理を単なる食事として提供するのではなく、高級料理(haute cuisine)としての「美的価値」「特別な体験」「社会的ステータス」を強調している[Mintz 1989]。料理のプレゼンテーションには舞台芸術や映画制作のような芸術的なアプローチが採用されており、一皿一皿が芸術作品のように提示されている。このことは、料理人の役割を単なる職人からアーティスト的存在へと変化させていることを示唆する。「Masque」のシェフたちは、伝統と革新の両立を目指しつつ、食を通じた新しい価値観の提示に取り組んでおり、料理そのものが現代社会の芸術的・文化的体験として認識される場を提供している。ムンバイにおいては外食が単なる「食事」から「文化的体験」として捉えられる傾向が強まっており、特にムンバイのようなコスモポリタン都市において、食文化が多層化していることが浮き彫りとなった。

反省と今後の展開

 今回の調査では、「Masque」に焦点を当てることでモダンインディアン料理の一端を把握することができた。しかし、調査対象が一つのレストランに限られていたため、ムンバイ全体のモダンインディアン文化の広がりや、他の地域との比較が不十分であった。また、食材のサプライチェーンや顧客層の詳細なデータが収集しきれなかった点も反省点として挙げられる。今後の展開として、料理学校でのフィールドワークを通して料理人のキャリアやレストラン業界の理解をさらに進める。また、料理人・生産者へのインタビューをさらに深め、食材の調達や技法の背景にある文化的・経済的要素を探求する。これにより、モダンインド料理がインド社会に与える影響をより包括的に理解することができると考えられる。

参考文献

 Appadurai, A. 1988. How to Make a National Cuisine: Cookbooks in Contemporary India, Comparative Studies in Society and History 30(1): 3-24.
 Mintz, S. W. 1989. Cuisine and Haute Cuisine: How Are They Linked? Food and Foodways 3(3): 185–190.
 Nandy, A. 2004. The Changing Popular Culture of Indian Food: Preliminary Notes, South Asia Research 24(1): 9–19.

  • レポート:清水 侑季(2024年入学)
  • 派遣先国:インド
  • 渡航期間:2024年9月16日から2024年12月10日
  • キーワード:インド料理、料理の人類学、ファインダイニング

関連するフィールドワーク・レポート

エチオピアにおける音楽実践と生活世界にかんする地域研究

対象とする問題の概要  エチオピア西南部の高地に暮らすアリの人びとは、地域内で自生・栽培されているタケをもちいて気鳴楽器を製作し、共同労働や冠婚葬祭においてそれらを演奏している。近代学校教育やプロテスタントの浸透によって、慣習的な共同労働や…

2017年度 成果出版

2017年度のフィールドワーク・レポートを編集いたしました。PDF版公開を停止しています。ご希望の方は支援室までお問い合わせ下さい。 書名『臨地 2017』院⽣海外臨地調査報告書 発⾏者京都⼤学⼤学院アジア・アフリカ地域研究研究科附属次世代…

ガーナの手織り布ケンテのグローバル市場における可能性の探求――博士予備論文執筆にむけた予備調査報告――

対象とする問題の概要  報告者は、アフリカのローカルな経済圏の中にある手工芸品が、グローバル市場で流通することで広がる可能性の探求を目指す。具体的には、ガーナの「ケンテ」という精巧に織り上げられた手織りの布を対象にする。そしてこの布のグロー…

現代イスラーム世界における伝統的相互扶助制度の再興と新展開――マレーシアのワクフ制度に注目して――

研究全体の概要  本研究は、ワクフ制度と呼ばれるイスラーム世界独自の財産寄進制度に焦点を当て、その再興が見られるマレーシアに着目し、その実態を解明することを目指す。 ワクフ制度とは、収益化できる財産を持つ者が、そこから得られる収益を特定の慈…

マダガスカル北西部農村におけるマンゴーと人の共生関係――品種の多様性とその利用――

対象とする問題の概要  栽培植物は常に人間との共生関係の中で育まれてきた。植物の品種を示す言葉は複数あるが、本研究の関心は地方品種にある。地方品種は、地域の人々の栽培実践によって成立した品種として文化的意味を含んでおり[Lemoine et…

ケニアにおける博物館事業の展開とその矛盾――国民性と民族性のはざまで――

対象とする問題の概要  ケニア史を彩る国民的英雄たちについて展示する国立博物館が、ケニア共和国ナイロビ県ランガタ地区ウフルガーデンにおいて竣工し、展示場の一般公開を間近に控えている。関係者が「ヒロイズム・ミュージアム」と呼ぶ当館は、ケニア国…