京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科 COSER Center for On-Site Education and Research 附属次世代型アジア・アフリカ教育研究センター
京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科
フィールドワーク・レポート

民主化期インドネシアにおける若者によるスハルト像の記憶形成および再評価――SNSを中心に――

写真1 インドネシア国立図書館におけるスハルトに関する展示品 (ジャカルタ、2025年9月撮影)

対象とする問題の概要

 スハルト元大統領は1967年から1998年まで約30年間にわたりインドネシアを支配し、経済成長や治安維持を実現する一方、東ティモール侵攻や人権侵害、大規模な汚職などによって「20世紀で最も腐敗した国家元首」とも評された。しかし近年、スハルトに対する評価は修正され、積極的な再評価が進みつつある。とくに政府は2008年以降、彼を国家英雄候補として繰り返し提案し、2025年11月には現大統領プラボウォにより正式に国家英雄として認定した。この動きは政府レベルにとどまらず、市民の間でも広がり、とりわけTikTok上では「スハルト時代の方が良かった」といったノスタルジア的言説が若者の間で拡散している。本研究は、TikTok上のスハルト関連投稿を分析し、SNSがいかに若者の記憶と評価を再構築し、この再評価を活発化させているのかを明らかにすることを目的とする。

研究目的

 本研究は、SNSによる若者のスハルトへの記憶と評価の再構築過程を分析し、インドネシアの民主主義が直面する課題を明らかにすることを目的とする。インドネシアでは、民主化の程度を示すElectoral Democracy Indexが1998年のスハルト政権崩壊後に上昇し、2005〜2008年には0.71を維持していたが、その後は低下し、2024年には0.48となった。このような民主主義の停滞をめぐり、多くの研究が制度的要因や政治エリートの行動に注目してきた。Kimura et al. [2024]は権威主義へのノスタルジアが政治意識に与える影響を分析したが、主にスハルト期を経験した世代を対象としている。これに対し、本研究は若者が主要に利用するTikTok上の言説を分析し、なぜ彼らがスハルト的言説に魅了されるのかを明らかにすることで、現代インドネシアの民主化が抱える構造的課題を検討する。

写真2 シャリフ・ヒダヤトゥラーイスラーム宗教国立大学の学生との交流会における記念写真(ジャカルタ、2025年10月撮影)

フィールドワークから得られた知見について

 フィールドワークにおいてインドネシアの若者と交流する過程で、記憶形成の多様性を実感することができた。当初、学校教育を通じて共通の歴史認識が形成されていると考えていたが、実際に学生へ聞き取りを行うと、彼らのスハルトに対する認識は一様ではなく、家庭や教育現場、メディア表象、SNS上の言説など多様な要因に影響されていることが明らかになった。
 特に印象的であったのは、スハルトと同じく中ジャワ出身の学生の語りである。この学生によれば、高校教科書におけるスハルトの評価は必ずしも肯定的ではなかったが、歴史教師はスハルトを積極的に評価しており、その影響から自身もスハルトを「安定をもたらした指導者」として好意的に捉えていた。一方、ジャカルタ出身の学生は、両親や配偶者の影響からスハルトを独裁者として認識しており、政治的抑圧に対する批判意識を明確に示していた。
 この対照的な語りから、国家が教育を通じて歴史叙述を統一しようとしても、実際には家庭の語りや地域的背景、世代間伝承が個人の歴史認識に大きく影響していることが分かる。とりわけ、スハルト時代を経験した親世代からの証言が、若者の認識を修正・補完する契機となっている点は注目に値する。
 さらに、現代の若者はSNSを通じて政治的・歴史的な情報に接しており、その影響は学校教育や家庭の語りをも凌駕しつつある。実際にTikTok上では、スハルトに対する肯定的記憶やノスタルジックな言説が拡散しており、こうした情報環境の中で若者の歴史意識が再構築されていることを実感した。聞き取り調査を通じて、先行研究や仮説では捉えきれなかった多様な語りと認識の層を確認できたことは、本研究における重要な成果である。これにより、SNSが現代の記憶形成に果たす役割の大きさと、フィールドワークによる質的調査の意義を改めて認識するに至った。

反省と今後の展開

 フィールドワークで学生と交流する過程において、私は研究デザイン上の二つの課題を認識した。第一に、TikTok使用者の社会階層に留意する必要がある。大学教育を受けるエリート層に属する学生たちは、TikTokの内容に距離を置く傾向を示しており、これにより社会階層によってスハルトへの態度が異なる可能性が示唆された。エリート層の言説だけでなく、より庶民的階層の視点を把握することが今後の課題である。第二に、若者世代だけでなく、親世代のスハルトに対する記憶や姿勢を検証する必要がある。そのため、今後は親世代が主に利用するFacebook上のスハルト関連投稿を分析し、TikTokとの比較を通じて世代間の記憶の差異と連続性を検討する。これらの課題を踏まえ、SNSにおける記憶形成の階層的・世代的構造を多面的に解明することで、本研究の深化を図る。

参考文献

 Kimura, E., Istania, R., Afrimadona, Imawan, R. P., & Ramadhan, D. 2024. Authoritarian nostalgia and democratic decline in contemporary Indonesia. Journal of Current Southeast Asian Affairs, 43(3): 387-408. 

  • レポート:贾 舸(2025年入学)
  • 派遣先国:インドネシア
  • 渡航期間:2025年9月15日から2025年10月23日
  • キーワード:スハルト、ノスタルジア、記憶の形成、SNS

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