植民地ケニアにおけるオーストラリア人女性宣教師
対象とする問題の概要 キリスト教は成立の初めから、「宣教的宗教」として[戸田2016]、普遍的な「神の言葉」である聖書を、言語や文化、民族の境界を越えて伝えるよう求めてきた。特に19世紀以降、宣教師が世界のあらゆる場所へ赴くようになったこ…
島根県津和野町では、マメ科の草本性植物であるカワラケツメイ(Chamaecrista nomame (Makino) H. Ohashi)を材料とした茶葉が生産されている。元来カワラケツメイは河原の砂地や道端また森林の緑辺部など、日当たりの良いところに自生する植物である。津和野町内には4軒の茶舗が営業しており、無農薬を前提に茶舗そのものがカワラケツメイを育てたり、周辺農家に生産を委託している。カワラケツメイの根を除いた地上部の植物体を乾燥させ、一定の大きさにカットし、焙煎した茶葉は「ざら茶」もしくは「まめ茶」と呼ばれている。カワラケツメイ茶は利尿作用や腎炎、脂肪吸収に効果があるとされる。
本研究では、土づくりや除草、施肥、収穫、採取といった方法やカワラケツメイの生産と流通、その歴史を調査し分析することで、カワラケツメイと地域に根ざした茶の製造の実態を明らかにしていきたい。
日本で初めて緑茶が飲まれたと歴史資料に残っている815年から17世紀後半まで、緑茶は高貴な人しか飲めない嗜好品であり、庶民には縁の無いものであった。緑茶を飲むことができない庶民は、代わりに緑茶の原料となるチャノキ(Camellia sinensis)以外の植物でお茶を作って飲んでいたとされている[静岡産業大学こどもお茶小事典作成事業室2012]。カワラケツメイ茶は、そのうちのひとつである。カワラケツメイをお茶にして飲む地域は、日本国内にいくつか存在しているが、津和野町のカワラケツメイ茶は少なくとも17世紀の藩政時代から嗜まれつづけている。本研究では、元々野草であるカワラケツメイの育成や茶の歴史を調査し分析することで、カワラケツメイと地域に根ざした茶の製造の実態を明らかにすることを目的にしている。
今回、2021年11月27日から12月17日までの3週間にかけて島根県津和野町および鳥取県鹿野町で聞き取り調査を実施した。どうやってカワラケツメイ茶を飲む習慣が津和野町に入ってきたのか、また商業化がいつしたのか歴史を探ることを第一の目的として調査した。津和野町で一番最初にカワラケツメイ茶を販売した茶舗によると、第二次世界大戦の影響から売れ行きが怪しくなった緑茶の代わりに、地元の方が普段から飲んでいる「ざら茶」を商品化したのが商業化の契機である。また調査の協力をしていただいた3軒の茶舗によると、カワラケツメイ茶は少なくとも江戸時代の旧藩時代から存在していたとされている。加えて、津和野町周辺の民家では、庭先にカワラケツメイを植え、それらをお茶として飲むことが習慣であった。現在では、緑茶の普及とカワラケツメイ茶の商業化によって、庭先でカワラケツメイを育ててお茶として飲む習慣が消失しかけている。
鳥取県鹿野町においても、庭先でカワラケツメイを育て、その茶茎に手を加えて茶葉にし、お茶として飲む習慣が存在していた。鹿野町と津和野町は、直線距離で240kmほども離れているが、実は深い繋がりが存在する。1581年に亀井茲矩は、出身が島根県であるものの鳥取県鹿野の藩主を実子である正矩と1618年までの37年間にわたり勤めあげた[横山1993]。短い統治期間であったのにもかかわらず、当時また現在の町民からとても慕われていた。それは茲矩が、朱印船貿易で暹羅や明、朝鮮半島から得た茶、薬草、生姜、稲などを領民の生活を豊かにするために導入していたからである[川島1921]。1617年7月に亀井家は津和野に転封の幕命が下り、鹿野から離れることになったのだが、この転居に鹿野町の農民を除くほとんどの領民とその家族が一緒に従った。人びとの移動に加え、カワラケツメイを緑茶の代わりとして飲む文化も移動したのではないかと推測している。
今回の調査を通じて、津和野町におけるカワラケツメイを育成し、お茶をたしなむ習慣は、少なくとも旧藩時代の頃から存在しており、現代まで続くほど生活には欠かせないお茶であることが明らかになった。また、津和野町のカワラケツメイ茶の製造と消費する習慣は、亀井茲矩の朱印船貿易によって鹿野町を介して根付いたのではないかと
推測している。次回は、津和野町におけるカワラケツメイの育成方法と茶の嗜み方に注目して調査をすすめていく。あわせて、カワラケツメイをお茶として飲むその他の地域の情報を集め、津和野町のユニークさを明らかにしていきたい。
川島元次郎.1921.「朱印船貿易史」内外出版.pp.283-285.
静岡産業大学こどもお茶小事典作成事業室.2012.「めざせ!お茶博士 こどもお茶小事典お茶の基本108と88のQ&A」(https://www.ocha-festival.jp/contents/images/ocha_dic.pdf).
横山正克.1993.「亀井茲矩」立花書院.pp.90-93.
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